• 平均寿命50歳時代に60歳で天下統一した徳川家康の経営術 2

平均寿命50歳時代に60歳で天下統一した徳川家康の経営術 2

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自身の拠点から有力な外様大名たちを遠ざける

―――徳川家康は徳川将軍家を継続させるために、外部に対してどのようなリスクヘッジをしていたのでしょうか?

外部に対するリスクヘッジは『徳川御三家』次ぐ第二の戦略です。
その目的は、大名の謀反によって徳川家の天下を奪われないようにすること。
家康は有力な外様大名たちを可能な限り江戸から遠方に追いやりました。
関ヶ原の戦いを基準に大名たちをしっかり整理していったのです。
まずは、西軍(石田光成側)として敵に回った大名たちに処分を下します。
なかでも、危険人物とされていた4氏(毛利、島津、上杉、佐竹)に目をつけました。
まずは勢いのあった毛利氏を120万石(現在の広島・山口・島根県全域)から36万石(現在の山口県)に減封し、日本海側の萩へと追いやりました。
さらに、毛利の本拠地だった広島には、東軍(家康側)で活躍した福島正則を清洲(名古屋)から移動させ、24万石から約50万石の大名へと出世させるなかで、毛利の見張り役とする配置をしました。
そして、名古屋を家康の4男の松平忠吉に任せ、名古屋地域を徳川家の傘下に治めたのです。

その後、忠吉がすぐに他界してしまったものの、ほどなく9男の義直を置き、これが御三家のうちの尾張藩となります。
このように、敵になり得る人物をなるべく江戸から遠ざけ、重要地域を身内で固める戦略は、他の外様大名の扱いにおいても徹底していきました。

―――つまり、自身の脅威となり得る有力な外様大名たちを徳川家の拠点である江戸からなるべく遠ざける戦略をとったということでしょうか?

はい。一見、出世した厚遇であるように見せながら、実際は遠ざけていくことが重要です。
例えば、NHK大河ドラマ『功名が辻』の主人公・山内一豊は、豊臣秀吉に仕えていた一人として5万石の掛川(静岡県)の主でしたが、関ヶ原の戦いで家康側についたことから土佐20万石余へと大幅加増されました。
とは言え、遠隔地である土佐への転勤です。
同じく豊臣時代に3中老の一人だった堀尾氏については12万石の浜松から24万石の出雲(松江)へ、中村氏は14万5000石の駿府から17万5000石の米子へと、いずれも加増転封を大義名分にしながら、江戸という重要拠点から上手に遠ざけていったのです。

一見、厚遇であるように見せるのがポイントです。
ですが、実際は、徳川家を脅かしそうな実力者たちを地方へと追いやっていった。
そしてその後は、全て松平や譜代大名が入り、東海道筋を徳川家がしっかり守ることになります。
(では、本拠地を防衛するポイントとは…続きは明日更新)

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岡田晃プロフィール

1971年慶應義塾大学経済学部卒業。同年、日本経済新聞入社。
記者、編集委員を経て、テレビ東京経済部長、テレビ東京アメリカ社長、理事・解説委員長などを歴任。「ワールドビジネスサテライト(WBS)」など経済番組のコメンテーターやプロデューサーをつとめた。
2006年テレビ東京退職、大阪経済大学客員教授に就任、経済評論家として活動開始(現在に至る)。
著書は「やさしい経済ニュースの読み方」(三笠書房)など。