• 平均寿命50歳時代に60歳で天下統一した徳川家康の経営術 3

平均寿命50歳時代に60歳で天下統一した徳川家康の経営術 3

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仮想敵国の外堀を埋めた後は・・・本拠地の防衛戦略

―――まさに仮想敵国の外堀を埋めた後は、本拠地である江戸の防衛がポイントとなってきますね。

はい。徳川家を守り続けるためには、江戸周りの防衛が大きなポイントとなってきます。
関ヶ原の戦いを基準にした大名の再配置はその後も続きました。
秀忠と家光の時代になっても継続的に行われ、江戸を防衛するための対策が講じられていきます。
1619年、厚遇扱いで広島に移っていた福島正則は、大阪夏の陣の後、城を無断で改築した理由で処分が下され、広島を離れます。
代わりに和歌山にいた浅野氏が入りました。
ただ、浅野氏も外様大名だったため、その際に広島藩の石高を減らして備後福山を細分化し、その分け前を徳川の親族である水野氏に与えました。
また、福山の手前に位置する岡山には、関ヶ原の戦いで家康側に寝返った小早川秀秋を置いたものの、2年後に秀秋が死去して小早川家が途絶えると、姫路にいた池田氏を岡山に配置します。当時の姫路は西日本の最重要拠点でした。
そのため、外様であった池田氏を姫路からはずしたかった狙いもあります。
その姫路には、のちに徳川四天王の一人となる本多忠勝の息子・忠政を入れることにしました。
姫路城は西日本の有力外様大名ににらみをきかせる最大の防衛拠点だったのです。

江戸から遠い中国地方の戦略にも力を入れていたのですね。

実は、中国地方の大名配置は、毛利氏の謀反に対する備えというのも狙いの一つでした。
もし毛利が江戸攻めに転じようとしても、その前の段階で幾重もの防衛線をはっておこうという戦略です。
山陽道だけでなく、山陰側にも津和野には亀井氏を、松江には親藩の松平氏を置いて、毛利氏の勢いを食い止める準備ができていました。
さらに、家康の用心深さはこれだけではおさまりません。
薩摩についても警戒していました。
薩摩封じを意識して、熊本に加藤清正を配置します。
その後、家光の時代になると、外様出身ながらも信頼の厚かった細川氏を小倉から熊本へと配置変えさせ、細川氏のいた小倉には譜代の小笠原氏を置くこととしました。

当時小倉は、九州と本州をつなぐ重要拠点となっており、仮に薩摩が謀反を起こして江戸を攻めようとした場合には、小倉で本州への道筋を阻む必要があったのです。
そのため、譜代の小笠原氏を小倉に置くことはとても重要であり、この重要拠点には、外様ではなく譜代大名でなければならなかったと言えます。
それでもなお、家康の用心深さは綿密であり、薩摩や毛利がさらに東へと攻め進む場合を想定し、大阪など畿内地方の多地域を幕府直轄、親藩あるいは譜代で抑え、畿内から江戸までの東海道沿いについても、全て親藩か譜代で固めていきます。
関東地域においても、親藩または譜代で制覇し、江戸は二重三重の完全な防衛網を築くことができました。
(では、経営危機管理において、本拠地を防衛するポイントとは…続きは明日更新)

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岡田晃プロフィール

1971年慶應義塾大学経済学部卒業。同年、日本経済新聞入社。
記者、編集委員を経て、テレビ東京経済部長、テレビ東京アメリカ社長、理事・解説委員長などを歴任。「ワールドビジネスサテライト(WBS)」など経済番組のコメンテーターやプロデューサーをつとめた。
2006年テレビ東京退職、大阪経済大学客員教授に就任、経済評論家として活動開始(現在に至る)。
著書は「やさしい経済ニュースの読み方」(三笠書房)など。